女教皇アベンチュリの憂鬱

『前世の記憶』の話を聞いたトオルは、突拍子も無い話だと思った一方、妙に納得していた。

自分が、いつの間にか生きることに対して意欲を失いつつあったのは、たった一人の肉親である祖母を病気で失うかもしれない、という恐怖と同じぐらい、自分という存在が何となく曖昧なものであることを、どこかでうっすらと感じでいたからかもしれない。

いつも何かを探しているような。

いつも何かが欠けているような。

そんな気持ちは日々の屈託となり、トオルの心を揺さぶっていた。




「前世の記憶は誰にでも戻せるものではない。魔力を宿していない身体に記憶を戻すのは、とても危険なことなんだ」

「僕に魔力なんて無いぞ?」

「桜を咲かせる手伝いをしてくれただろう?あれは、お前の為だったんだ」

魔力を宿した石を探すことで力を高め、またその石に触れることで、間接的にトオルの身体にハーキマーの魔力を取り込んでいたのだ、とアベンチュリが丁寧に教えてくれた。

「私が直接お前に魔力を注ぐことは、それもまた危険な行為。人間はすぐに壊れる」

そんな話をしているうちに、時刻はあっという間に12時を迎えようとしていた。

「トオルさん、そろそろ時間です。その桜の木に両手を触れて下さい」

「トオル、急げ!目を閉じるんだ!」

瞬間。

アベンチュリの首輪についていた羽根のモチーフが浮かび上がり、目が潰れてしまいそうなぐらいの白い光を放った。

辺りを覆った白い光は、まるで生きているかのように桜の木に吸い寄せられ、木の幹に手を触れていたトオルの体を包み込んだ。

そして、白い光を内包した桜は大きくうねり、地響きを立てボロボロと崩れ去った。

枝や幹の部分はほとんど土と同化し、花びらだけがまるで絨毯のように中庭を埋め尽くした。




トオルの記憶を保持するのは容易なことではなく、人間からアベンチュリの羽根へと移す際、媒介となるものが必要だった。

その媒介となったのが、この桜だった。

桜が枯れれば、トオルの記憶も消滅する。

媒介となることで異体同心のようになってしまった桜の木を、祖母である鈴子は38年間見守り続け、時にはハーキマーの手伝いをし、桜の花を咲かせ続けたのだった。

そしてハーキマーは、トオルを失ってから、どれだけ月日が経っても心が晴れない鈴子に、ずっと寄り添い続けていた。

トオルが生まれ変わるまでの22年は、とても見ていられないぐらい鈴子は悲しみに暮れ、全ての幸せから背を向けるように、ただ、ただこの桜だけを慈しみ続けた。

ハーキマーは何度も後悔した。

生まれ変わりを待てばいい…なんて…軽率に提案しなければ良かった。

だが…ハーキマーがそれを提案しなければ、鈴子はあの日、トオルのあとを追い、きっと自分の命を断ってしまっていたに違いなかった。



「ハーキマー、アベンチュリ…ありがとう。思い出したよ、前世のこと。鈴子は僕を…ずっと、ずっと待ってくれていたんだな」

「あいつはバカみたいに純粋だからな。だが…あいつは今日、ここに来なかった」

「今日が記憶を戻す約束の日だと分かっていたはずですが…トオルさんにも教えなかった。記憶を戻す必要は無いと思ったのでしょうか?」

ハーキマーとアベンチュリは、前世の記憶が人間にとって必要な素材であることまでは、鈴子には教えていなかったらしい。

「そうかもな。トオルを孫として引き取ってから、あいつはいつも幸せそうだった。たとえお前が鈴子を忘れていても」

「トオルさんが生まれてきてくれた。それだけで鈴子さんは満たされたのかもしれませんね」

トオルも今、心が満たされていた。それはきっと、『前世の記憶』という人間の素材を取り戻したから、だけではないだろう。

「…ああ、そういえば」

ハーキマーがイタズラっぽく笑う。

「お前の身体には私の魔力が宿っている。ある程度のことなら何でも出来るぞ?」

「…ある程度のことならってあたりが」

「「詐欺っぽいな」」

ハーキマーとトオルの台詞がかぶり二人で笑い合った瞬間、ハーキマーの身体が先程とは違う、温かくて柔らかな光を放ち、徐々にハーキマーの姿が薄れていった。

「…ハーキマー?」

「トオル。お前を失いたくないと願うやつがそばにいる。それはお前の誇りだ。幸せは与えられるものじゃない。気付くものなんだ」

辺りに散る桜がふわりと優しく舞い上がる。

「さてと、桜を咲かせるっていうなっがーい役目も終わったから、私は石に還る。あー疲れた。100年ほどゴロゴロするぞー!」

ハーキマーは光に包まれた。

トオルがゆっくり目を開くと、その手には、まだ温かい海のような蒼さを宿した石があった。

ハーキマーの綺麗な瞳と同じ蒼。

トオルは『ありがとう』と小さく呟き、美しく輝く石を優しく握りしめた。

舞い降りた桜が、地面を薄紅色に染めた。

powered by crayon(クレヨン)